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麹なしで、なぜ味噌になるのか。希少な伝統味噌「ねさし味噌」と自然発酵の最新科学
日本の味噌は、麹で作られる。
そう思っている人がほとんどだろう。味噌の製造において麹菌(Aspergillus oryzae)は欠かせない存在だ。大豆のタンパク質を分解し、でんぷんを糖に変え、あの複雑な旨みと甘みを生み出す。麹なくして味噌なし──それが現代の「常識」だった。
ところが日本には、その常識の外に存在する味噌がある。
麹を使わない。種付けもしない。自然に発生する微生物だけに委ね、最低3年以上かけてゆっくり熟成させる。それが「ねさし味噌」だ。
2026年1月30日、学術誌 Frontiers in Microbiology に発表された論文が、このねさし味噌の微生物生態を初めて科学的・網羅的に解析した(PMC ID: PMC12901402)。
「ねさし味噌」とは何か
ねさし味噌は、日本に現存する発酵食品の中でも特異な存在だ。
一般的な味噌の製造プロセスは、大まかに「米・麦・大豆に麹菌を培養 → 塩と大豆を混ぜ込んで仕込み → 発酵・熟成」という流れをたどる。このとき麹菌(Aspergillus oryzae)が発酵の核を担い、数カ月から1年程度で製品になる。
ねさし味噌はこのプロセスを根本から異にする。麹を一切使わず、自然界に存在する微生物がそのまま発酵を担う。いわば「自然生え(じねんばえ)」の発酵だ。
製造は厳冬期、1月から2月に行われる。熟成期間は最低でも3年。長いものでは5年以上かけて完成する。その間、外部から種菌を加えることはない。蔵の環境、原料の大豆、製造者の手──すべてが微生物の供給源となり、ゆっくりと複雑な発酵が進んでいく。
この製法は、現代の効率化された食品製造の観点からは非効率に映るかもしれない。しかしその長い時間の中で何が起きているのか、科学はようやくその扉を開き始めた。
麹ではなく、ムコール菌が主役だった
今回の研究が最も明らかにしたのは、ねさし味噌の発酵を主導する微生物の正体だ。
解析の結果、ねさし味噌の微生物群集を支配していたのは Mucor plumbeus(ムコール・プルンベウス) という糸状菌だった。
ムコール菌はカビの一種だ。麹菌(Aspergillus)と同じ糸状菌ではあるが、まったく別の属に属する。一般的な味噌製造では使われることのない菌だ。なぜムコール菌が主役になるのか。それは麹菌という「競合相手」がいないからだ。麹を使わない製造環境では、大豆や蔵に自然に存在するムコール菌が優占的に増殖する。その結果、通常の味噌とはまったく異なる微生物生態系が成立する。
ムコール菌に加えて、Penicillium属(ペニシリウム)の糸状菌も検出された。これも通常の味噌には登場しない菌種だ。私たちが「味噌の中の微生物」と聞いてイメージするものとは、まったく異なる世界がねさし味噌の中に広がっていた。
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メタゲノミクスが初めて見えなかった世界を解いた
この研究の画期的な点は、文化非依存的な手法(culture-independent approach) を用いたことにある。
従来の微生物研究では、培地でサンプルを培養し、生えてきた菌を解析する「培養法」が主流だった。しかしこの方法には限界がある。培地で育つ菌は、全体の微生物のごく一部にすぎない。自然環境や発酵食品の中には、培地では育てられない微生物が数多く存在する。
研究チームが用いたのは ショットガンメタゲノミクス(shotgun metagenomics) という手法だ。サンプル中のDNAをすべて直接読み取り、どんな微生物がどれだけ存在するかを網羅的に解析する。培養できない菌も含めて、発酵食品の微生物群集全体を「そのまま」見ることができる最先端の技術だ。
さらに Oxford Nanoporeテクノロジー による長読み配列決定(long-read sequencing)も実施し、主要なムコール菌株の全ゲノムを解読した。このアプローチは、菌の遺伝子の全容を高精度で把握するために有効だ。
この2つのアプローチを組み合わせることで、ねさし味噌の微生物生態が初めて詳細に明らかになった。「ねさし味噌の中に何がいるのか」という問いに、科学が初めて本格的に答えた瞬間だった。
解析はさらに、世界の65の発酵食品・環境サンプルのメタゲノムデータと比較する主成分分析(PCA)まで実施している。これにより、ねさし味噌の微生物生態が世界のどの発酵食品と近いのかという「位置づけ」まで明らかにした。
食品環境に「適応」した菌の進化的意味
ゲノム解析によって、もうひとつ重要な発見があった。
ねさし味噌から分離したムコール菌株は、自然環境(土壌・空気)に存在するムコール菌株と比較して、アミノ酸代謝に関わる独特の遺伝子 を持っていることが明らかになった。特にチロシン代謝(tyrosine metabolism)に関する遺伝子が特徴的だった。
これは何を意味するのか。
ムコール菌は本来、土壌や空気中に広く存在する微生物だ。しかしねさし味噌の製造環境に繰り返しさらされることで、食品の中で生き延び、発酵に貢献するための遺伝子を発達させてきた可能性がある。
研究チームはこの現象を「食品ニッチへの適応(adaptation to food niche)」と表現している。長い歴史を持つ発酵食品の製造環境は、微生物を選別し、育て、独自の生態系をつくり上げる「培養された微生物の貯蔵庫(cultivated microbial reservoir)」として機能してきた──論文はそう述べている。
さらに興味深いのは、PCA分析でねさし味噌のメタゲノムが中国の伝統的な発酵食品 大麹(daqu) とクラスタリングしたことだ。大麹は中国の白酒・紹興酒などの醸造に使われる自然発酵スターターで、麹ではなく様々な糸状菌・酵母・細菌が自然に共存している。「麹を使わない自然発酵」という共通点が、微生物生態の類似性として現れた。
伝統的な自然発酵食品は、文化や地域を超えて共通の微生物原理を持っている可能性を示す発見だ。
「3年以上」という時間が持つ意味
一般的な味噌は数カ月〜1年で製品になる。なぜねさし味噌は3年以上かかるのか。
麹菌は酵素の産生能力が高い。デンプン分解酵素(アミラーゼ)やタンパク質分解酵素(プロテアーゼ)を大量に分泌し、発酵を一気に進める。麹があることで、短期間で発酵を完了させることができる。
ムコール菌は麹菌ほど酵素活性が強くない。自然生えの微生物群集がゆっくりと発酵を積み上げていくため、同じ「完成」の状態に達するまでに長い時間が必要になる。
しかしこの「遅さ」は欠点ではないとも考えられる。長い発酵期間の中で多様な微生物が関与し、複雑な代謝反応が何年にもわたって積み重なる。その結果として生まれる風味・成分・香りの複雑さは、短期間の発酵では到達できない領域にある可能性がある。
研究はまだその全容を明らかにしていないが、「時間をかけること」に科学的な意味がある可能性が、今回の研究からも浮かび上がってくる。
日本の伝統発酵食品が持つ科学的意義
今回の研究は、ねさし味噌という個別の食品を超えた意味を持っている。
日本の伝統的な発酵食品──味噌・醤油・日本酒・納豆・漬物──は、長い時間をかけて「経験的に」磨かれてきた。微生物の存在すら知られていなかった時代から、職人たちは試行錯誤を重ね、最適な製法を見つけてきた。その製法の中に、科学が後から意味を発見し続けている。
麹を使う一般的な味噌は、その微生物生態がすでに多く研究されている。しかし麹を使わないねさし味噌は、長らく科学の目から見えないままだった。今回の研究は、そのブラインドスポットをようやく照らした。
「古い職人技法が微生物群集組立の方法を保持している」──論文はそう表現している。伝統は単なる習慣ではなく、微生物科学の観点からも合理性と独自性を持つ可能性があるということだ。
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まとめ
ねさし味噌は麹を一切使わず、自然界の微生物のみで3年以上かけて発酵する、日本の希少な伝統発酵食品だ。今回の研究がメタゲノミクスとゲノム解析を組み合わせて初めて解析した結果、発酵の主役は Mucor plumbeus(ムコール菌)であること、食品環境への適応として独自のアミノ酸代謝遺伝子を持つこと、そしてこの製造環境が微生物の「貯蔵庫」として機能していることが明らかになった。
現代の味噌づくりでは想定されない微生物が、日本の伝統の中で独自の発酵生態系を形成していた。その事実は、私たちが「発酵食品を知っている」と思っていた理解が、まだほんの一部にすぎないことを示している。
麹なしで、3年以上。時間と自然が、ひとつの味噌を作り上げる。
Toshiより
「味噌は麹でつくるもの」 この前提が、静かに崩れるような読後感だった。
ねさし味噌の存在は知識としてはどこかで聞いたことがあっても、その中で何が起きているのかをここまで科学的に覗き込んだ研究は、まさに”見えなかった世界の可視化”だと感じる。
特に印象的だったのは、発酵の主役が麹菌ではなく、ムコール菌だったという事実だ。
私たちは「旨み=麹菌の仕事」と無意識に思い込んでいる。しかしこの研究は、その役割が特定の菌に固定されたものではなく、環境次第で別の微生物が担いうることを示している。 つまり発酵とは、“菌を使う技術”というより、“環境を設計する文化”なのだと気づかされる。
さらに興味深いのは、ねさし味噌の微生物が単なる自然の寄せ集めではなく、「食品環境に適応した存在」へと進化していた点だ。
これは偶然ではない。 長年同じ蔵、同じ仕込み、同じ手で繰り返されることで、微生物は選ばれ、残り、育てられていく。
人が菌を育てているのか。 菌が環境を選んでいるのか。
その境界が曖昧になる感覚が、発酵の奥深さそのものだと思う。
また、3年以上という時間の意味も強く考えさせられた。
現代は「いかに早く作るか」に価値が置かれる。しかしねさし味噌はその真逆にある。 時間を短縮しないことでしか生まれない複雑さがある——それは効率では測れない価値だ。
発酵は、スピードではなく”重なり”なのだろう。 微生物の世代交代、代謝の蓄積、環境との相互作用。そのすべてが時間という層の中で積み上がっていく。
そして最後に、この研究が示している最も大きな意味は、「伝統は非合理ではない」ということだ。
むしろ、科学が追いついていなかっただけで、そこには明確な微生物学的ロジックが存在していた。 職人の経験は、偶然ではなく、長い年月をかけた”実験の蓄積”だったのだ。
ねさし味噌は、単なる珍しい食品ではない。 それは、微生物と人間の関係性のもう一つのかたちを示す存在だ。
麹を使わない。種も加えない。 それでも発酵は起こる。
そこにあるのは、「自然に任せる」というよりも、 “自然と共に設計された環境”なのだと思う。
発酵を知れば知るほど、わからなくなる。 そしてその「わからなさ」こそが、面白い。
ねさし味噌は、その入口をさらに深くしてくれる存在だった。
※ この記事は個人の体験と公開情報に基づくものです。特定の疾患の診断・治療・予防を目的としたものではありません。健康上の不安がある方は、医師・管理栄養士などの専門家にご相談ください。詳しくは免責事項をご覧ください。