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醤油の香りとうま味の土台は、製麹40時間でどう変わる?工場の3つの麹室を4時点で追った研究
この記事について この記事は、醤油の製造工程(製麹)における成分と微生物の変化を調べた食品科学の研究を紹介するものです。特定の食品や成分について、病気の予防・治療・健康の改善を示すものではありません。また、医療上の助言でもありません。体調や持病、服薬について気になることがある場合は、医師・薬剤師などの専門家にご相談ください。本記事の画像は、麹室を表現したAI生成のイメージです。研究で使用された醤油麹、工場、商品を撮影したものではありません。
醤油の香りを思い浮かべてみてください。焦げたような香ばしさ、ほのかな甘い香り、そして深いうま味。あの複雑な風味は、どの段階で生まれているのでしょうか。
多くの人は「長い熟成のあいだにゆっくりできあがる」と考えるかもしれません。しかし醤油づくりの現場では、熟成に入る前の、ごく短い工程が重視されてきました。製麹(せいきく) と呼ばれる、麹をつくる工程です。
2026年、食品科学の査読付き学術誌『Foods』に、この製麹の40時間を細かく追跡した研究が掲載されました。工場の3つの麹室(こうじむろ)で、水分・pH・酸・アミノ酸・香りの成分、そして菌の顔ぶれがどう移り変わるのかを、同時に測っていった報告です。
ここでいう醤油の「製麹」は、家庭で米麹と醤油を混ぜて作る調味料の「醤油麹」とは異なります。今回調べられたのは、醤油醸造に用いる麹を工場でつくる工程です。それでも、「麹の40時間に何が起きているのか」を知ることは、ふだん台所で扱っている発酵食品を、少し違う角度から眺めるきっかけになるかもしれません。
何を調べた研究なのか
この研究は、中国・北京工商大学(Beijing Technology and Business University)の研究グループらが報告したものです。調べたのは、工業的に醤油をつくっている工場の製麹工程でした。
具体的な設計は次のとおりです。
- 同じ1回の製造バッチから、独立した3つの麹室を選び、それぞれを繰り返し(生物学的反復)として扱った
- 製麹の開始から 6時間・12時間・20時間・40時間 の4つの時点で試料を採取した
- 麹室の中の5か所から採ったものを混ぜ合わせ、ムラが出にくいようにした
- 一方は理化学的な分析と香り成分の測定に、もう一方は微生物の解析に回した
菌の解析には、細菌については16S rRNA遺伝子のV3〜V4領域、真菌(カビ・酵母)についてはITS領域を読み取る、いわゆる次世代シーケンサーによる網羅的な手法が使われています。
ここで押さえておきたいのは、これはヒトを対象とした試験ではないという点です。人が食べてどうなったかを調べたものではなく、製造工程の中で「何がどう変わるか」を観察・測定した食品科学の研究にあたります。また、3つの麹室はあくまで同じ1バッチの中の3室であり、多数の工場や長期間を比べたものではありません。
麹が乾いていくのは、単なる「水分の蒸発」ではなかった
まず報告されたのは、水分の変化です。3つの麹室すべてで、発酵が進むにつれて水分が減り続け、特に20〜40時間の後半で減り方が速くなったとされています。
興味深いのは、著者らがこれを「単純な物理的な乾燥」ではないと説明している点です。論文では、次の3つが重なった結果ではないかと考察されています。
- 麹菌(Aspergillus oryzae、ニホンコウジカビ)の呼吸熱 — 麹菌が活発に増えるとき、酸素を使って熱を出します。その熱が麹の温度を押し上げます
- 強制的な送風 — 工場では温度が上がりすぎないよう風を送ります。これが温度を下げると同時に、水分を飛ばします
- 麹の構造がほぐれること — 麹菌が出すアミラーゼ(でんぷんを分解する酵素)やプロテアーゼ(たんぱく質を分解する酵素)が原料を分解し、かたく詰まった粒の構造がすき間の多い状態に変わります。空気に触れる面積が増え、水分が抜けやすくなります
つまり「菌が働くこと」と「工程の操作」と「材料そのものの変化」が、たがいに影響し合っているという見立てです。同じ工場の3室でも、水分の減り方には少しずつ違いがあり、これは工程条件のわずかなずれが菌の増え方に影響したためではないかと述べられています。
pHが下がって、また上がる——U字型の変化が示すもの
この研究でとりわけ注目されているのが、pH(酸性・アルカリ性の度合い)の動きです。
3つの麹室すべてで、pHはいったん下がってから、また上がるというU字型の推移を示しました。
前半(およそ0〜20時間)は、麹菌が活発に代謝し、クエン酸や乳酸といった有機酸を蓄えていくため、pHが下がると説明されています。ところが20時間あたりを境に、pHは上昇に転じました。著者らはその理由として、
- 糖が減ってきて、有機酸そのものが消費されるようになったこと
- たんぱく質の分解が進んでアミノ酸が増え、それがさらに分解される過程でアンモニアが出て、酸を打ち消す方向に働いたこと
の2つを挙げています。40時間の時点ではpHは落ち着き、麹菌の代謝が定常状態に入ったことを示すとされました。
ここから著者らが導いた指摘が、実務的にはいちばん重要かもしれません。総酸(酸の総量)は最後まで増え続けていたのに、pHは途中から上がっていたのです。つまり「pHを測れば酸の量が推定できる」という従来からの経験的な前提は、そのままでは成り立たない場面があるということになります。
ただし著者ら自身が、この解釈は相関にもとづくものであり、アルカリ性物質の生成と有機酸の代謝がそれぞれどれだけ寄与したのかを定量したわけではない、と明記しています。従来のやり方を覆すものではなく、補足するものだという慎重な書き方がされています。
うま味に関わるアミノ酸は、後半の20時間で大きく増加した
遊離アミノ酸(結合していない、単体のアミノ酸)についても16種類が測定されました。
全体として、アミノ酸の総量は発酵時間とともに大きく増えていきました。特に20時間から40時間が、いちばん増え方の速い時期だったと報告されています。抄録では、アミノ酸態窒素(うま味の指標として醤油業界で使われる値)が 0.6〜0.9 g/100 g の範囲で増え続けたとされています。
内訳では、うま味に関わるアスパラギン酸とグルタミン酸の量がもっとも多く、中盤から後半にかけて急速に伸びました。醤油のうま味につながりうる成分が、この時期に蓄積していくという見方が示されています。
一方で、苦味に関わるアミノ酸も少しずつ増えており、甘味に関わるアミノ酸は緩やかな増加にとどまりました。そして同じ40時間の時点でも、3つの麹室のあいだでアミノ酸の総量には差がありました(麹室2>麹室1>麹室3)。著者らは、麹室2は温度と湿度が比較的安定しプロテアーゼ活性が高かったためではないか、と推測しています。
これはあくまで推測として書かれているもので、原因を実験で切り分けたわけではない点には注意が必要です。
香りの成分は、105〜124種類のうち77種類が共通していた
香り成分(揮発性成分)の分析では、麹室ごとに検出された種類の数が違いました。麹室1で115種類、麹室2で124種類、麹室3で105種類です。
このうち3室すべてに共通して見つかったのが77種類でした。エステル14、アルコール15、フェノール4、酸5、アルデヒド16、ケトン10、ピラジン9、フラン1、その他3という内訳です。
さらに著者らは、OAV(香気活性値)という指標を使って絞り込みを行いました。これは「その成分の濃度」を「人がにおいを感じ取れる最低濃度(閾値)」で割った値で、1以上なら香りに寄与している可能性がある、と判断されます。
その結果、3つの麹室すべての、すべての時点で OAV が1以上だった成分が13種類ありました。1-オクテン-3-オール(きのこのような香り)、酢酸エチル、3-メチルブタナール、ヘキサナール、ノナナール、フェニルアセトアルデヒド、グアイアコール、4-ビニルグアイアコール(燻したような香り)、2,3-ブタンジオン、アセトインなどです。
著者らは、これらが製麹段階の香りの骨格をなし、その後のもろみ工程での変化の出発点になると考察しています。ただし、この研究はもろみ発酵後の完成した醤油までは調べていません。
なおOAVについても、著者らは限界を認めています。使った閾値は別の食品環境で測られた文献値であり、実際に人が嗅いで確かめる官能試験(再構成試験・除去試験)は行っていないため、本当にその香りに効いているかは確認されていない、としています。
カビの世界はそろい、細菌の世界はばらついた
微生物の解析からは、対照的な2つの姿が見えてきました。
真菌(カビ・酵母) の側は、種類が少なく、3室でよく似ていました。検出された種数は麹室1で29、麹室2で25、麹室3で28。全体で44種で、3室すべてに共通する種が全体の34.1%を占めました。狙いどおりに麹菌を育てる工程設計が、真菌の世界を単純な形にそろえている、と解釈されています。
細菌 の側は、まったく様子が違いました。検出された種数は麹室1で84、麹室2で92、麹室3で93。全体では121種にのぼり、3室共通は65種(53.7%)。しかも各室に固有の種が多く、麹室3だけで18種の固有種が見つかりました。時間の経過とともに種数も増え、6時間の74種から40時間の86種へと推移しています。
著者らはこの違いを、工程の性質から説明しています。製麹は完全に閉じた無菌環境ではなく、半開放系です。麹菌については温度・湿度・送風で狙って育てる制御がかかりますが、細菌についてはそうした制御がありません。その結果、細菌のほうは場所ごとのわずかな環境の違いを受けて、ばらつきやすくなる——という整理です。
著者らは、細菌群集の違いが、麹室ごとの成分や香りの差に関わる可能性を考察しています。ただし相関にもとづく考察であり、因果関係は確認されていません。
少数の菌と、複数の香り成分との相関が見つかった
もっとも興味深い報告が、菌と香り成分の関係を調べた相関解析です。
著者らは、存在量の多い上位10属について、香り成分とのスピアマン順位相関を調べました。すると、直感に反する傾向が見えてきたといいます。
麹室1では、いちばん多かった Aspergillus(麹菌の属)が有意な正の相関を示した香り成分は、2-ペンチルフランだけでした。細菌でもっとも多かった Weissella(ワイセラ)は、マルトールと正の相関、ヘキサナールと負の相関を示しただけです。
その一方で、数としては少ない菌——Saccharomycopsis、Apiotrichum、Alternaria といった属——のほうが、より多くの香り成分と有意な相関を示しました。麹室2、麹室3でも似た傾向が観察されています。
ここから著者らは、次のような機能の分担があるのではないかと考察しました。
- 数の多い菌(麹菌、Weissella など)は、でんぷんやたんぱく質といった大きな分子を分解し、材料(前駆体)を用意する役割が中心
- 数の少ない菌は、その材料を受け取って、特徴的な香り成分をつくることに関わっている可能性がある
ただし、この点についても著者ら自身が強くブレーキをかけています。この相関ネットワークはFDR補正(多数の比較を行うときに偶然の一致を補正する統計処理)を行っていない探索的な解析であり、「数の多い菌と少ない菌で役割が分かれている」という見立ては、純粋培養やマルチオミクスによる検証を待つ段階だ、と明記されています。
つまり、現時点では「そう見える」という段階であって、確かめられた事実ではありません。
著者らが挙げた、この研究の限界
論文には限界がはっきり書かれています。誠実な記述だと思われるので、そのまま整理しておきます。
- 相関解析はFDR補正をしておらず、菌・理化学的な値・香り成分の関連は探索的なものにとどまる
- 香り成分の絞り込みに使った閾値は別の食品環境の文献値であり、官能試験による検証をしていない
- 半開放の工業環境のため、環境の影響を正確に測ることには限界がある
- U字型のpH変化の解釈は相関データにもとづくもので、寄与の大きさを定量できていない
加えて、この記事の立場から補足するなら、対象は同じ1バッチの3つの麹室・4時点です。他の工場や、原料・季節の違う条件で同じことが起きるかどうかは、この研究だけからは判断できません。
資金提供と利益相反について
論文には次のように記載されています。
この研究は、山東魯花生物科技有限公司(Shandong Luhua Biotechnology Co., Ltd.)からの資金提供を受けています。あわせて中国国家自然科学基金(課題番号31701592)の支援も受けています。
また、著者のうち2名は同社の従業員であり、それぞれ研究の監修・検証・図の作成・原稿の査読などに関わったと開示されています。同社の役割は試験試料の提供であった、とも記されています。試料もこの企業から提供されたものです。
こうした背景があることは、結果そのものを否定するものではありません。ただ、読むときの前提として知っておいてよい情報だと考え、記載しました。
家庭の発酵に、そのまま当てはめられるか
ここは慎重に区別しておきたい点です。
この研究が対象にしたのは、温度・湿度・送風を機械で管理する工業的な製麹室です。家庭で醤油麹や味噌を仕込む環境とは、条件が大きく異なります。研究で観察された時間ごとの変化を、そのまま家庭の仕込みに当てはめることはできません。
特に、「数の少ない菌が香りに関わっているかもしれない」という報告を、家庭で雑多な菌やカビを増やしてよい根拠と受け取るべきではありません。 工場の製麹は、狙った麹菌が優勢になるよう厳密に管理されたうえで成り立っています。Alternaria のように相関が報告された属の中には、食品衛生の観点から望ましくない種を含むものもあります。
家庭で麹や味噌、醤油麹を仕込む場合は、
- 種麹は信頼できる販売元のものを使う
- 道具と手をよく洗い、清潔な容器を使う
- 温度管理の目安を守る
- 見慣れない色のカビ、異臭、ぬめりなどの異常があれば、もったいなくても食べない
といった基本を守ることが大切です。ただし、外観やにおいだけで安全性を判断できるとは限りません。信頼できる製法に従い、判断に迷う場合は食べないでください。自家製の発酵食品には、食品衛生上のリスクが伴う場面があります。
塩分について
醤油は塩分の多い調味料です。この研究は製麹工程の科学を扱ったもので、摂取量について何かを示すものではありませんが、日常の食事という観点では、醤油・味噌・漬物といった発酵調味料は塩分の摂りすぎにつながりやすい面があります。
厚生労働省は日本人の食事摂取基準(2025年版)で食塩の摂取目標量を示しており、国民健康・栄養調査では、日本人の平均摂取量はその目標を上回っているとされています。かけるより「つける」、だしや酸味、香りを活かして醤油の量を減らす、といった工夫は、味を損なわずに量を抑える方法として知られています。持病や食事制限がある場合は、必ず医師や管理栄養士の指示に従ってください。
台所から、この研究をどう眺めるか
この研究から、断定できることは多くありません。相関の解析は探索的で、香りの寄与も官能試験では確かめられていません。ヒトの健康について語る研究でもありません。
それでも、ひとつ示されたことがあります。醤油の香りやうま味につながりうる成分が、熟成前の製麹段階ですでに形成され始めていることです。そしてその40時間のなかでも、後半の20時間が、アミノ酸が急速に増える節目にあたっていました。
もうひとつ印象に残るのは、同じ工場の、同じバッチの、隣り合った3つの部屋ですら、細菌の顔ぶれと香りの内訳が違っていたという事実です。それでも、77種類の共通成分と、OAVが1以上だった13種類の香り成分候補は、3室に共通して検出されていました。「ぶれ」と「そろい」が同時に存在しているのが、発酵という営みなのかもしれません。
台所での実用という点では、次のように受け止めるのが妥当でしょう。
- 麹を扱うとき、時間の経過そのものが工程であると意識してみる。特に後半に変化が集中するという報告は、途中で見た印象だけで判断しないほうがよい理由になります
- 自家製の発酵は、清潔と温度管理という基本の上に成り立つ。研究が示したのは「多様な菌が勝手に良い仕事をする」ことではなく、「狙った菌を優勢にしたうえで、その周りに多様性が生まれる」という順序でした
- 醤油や味噌は塩分を含む調味料です。量を意識しながら、香りやうま味という持ち味のほうを活かす使い方が、無理なく続けやすい選択になります
毎日なにげなく使っている調味料の裏側で、こうした細かな測定と検証が続いています。そのことを知ると、ひと皿の見え方も少し変わってくるかもしれません。
Toshiより
醤油と聞くと、私はどうしても長い熟成の時間を思い浮かべます。大きな桶の中で、もろみが何か月もかけてゆっくり変化し、あの色と香りが生まれていく。ところが今回の研究が見つめていたのは、その長い熟成に入る前の、わずか40時間でした。醤油の味や香りの土台は、もっと早い段階からつくられ始めている。その事実に、発酵の時間の濃さを感じました。原著論文
40時間と聞けば、二日にも満たない短い時間です。しかし麹の中では、水分が減り、pHが動き、酸やアミノ酸が増え、微生物の顔ぶれまで変わっていました。人の目には、麹菌が原料の表面に広がっていくようにしか見えなくても、その内側では多くの反応が同時に進んでいる。発酵食品をつくるということは、菌を増やすだけではなく、温度、湿度、空気、原料、時間が関わる小さな環境を整えることなのだと思います。
特に印象に残ったのが、pHがいったん下がり、その後また上がるというU字型の変化です。私たちは数字を見ると、一つの数字で全体を理解したくなります。pHが低ければ酸が多く、高ければ少ない。そんなふうに単純に考えてしまいがちです。しかし今回の研究では、総酸は増え続けているのに、途中からpHは上昇していました。酸が増える一方で、それを打ち消す方向の物質も生まれていた可能性があるからです。
これは、発酵を見るときの大切な教訓だと感じます。一つの測定値だけで、「順調だ」「失敗だ」と決めることはできない。見えている数字の後ろで、別の変化が同時に起きているかもしれないからです。発酵は、一本の直線のようには進みません。下がったものが上がり、増えたものが別の物質へ変わり、ある菌がつくった材料を別の菌が使う。そうした複雑さこそが、発酵の本当の姿なのでしょう。
遊離アミノ酸が、とくに20時間から40時間の後半で大きく増えたという結果にも惹かれました。醤油のうま味は、もろみを長く熟成させることで初めて生まれるのではなく、その前の製麹の段階で、すでに材料が用意されていたのです。麹菌がたんぱく質を分解する酵素をつくり、次の工程へ渡す。その働きは、舞台に上がる前に道具をそろえる裏方の仕事に少し似ています。完成した醤油だけを見ていると気づきませんが、最初の40時間が、その後の味の行方を支えているのだと思います。
ただし、ここで使われている「醤油の製麹」と、家庭でつくる調味料の「醤油麹」は、同じものではありません。今回研究されたのは、大豆や小麦などの原料に麹菌を育て、醤油づくりのための麹をつくる工業工程です。家庭で米麹と醤油を混ぜて熟成させる醤油麹とは、原料も設備も目的も違います。私自身も麹醤油を仕込みますが、この40時間という数字を、そのまま家庭のレシピに持ち込むことはできません。この違いは、きちんと分けて受け止めたいと思います。
もう一つ面白かったのは、同じ工場の同じ製造バッチでも、三つの麹室で細菌の顔ぶれに違いがあったことです。工場の製品というと、すべてが完全に同じ条件で、同じ結果になるように思えます。実際には、隣り合った部屋でも、空気や水分、温度のわずかな差によって、小さな違いが生まれていた。それでも、共通する香りの成分や中心となる麹菌の働きは保たれていたといいます。
「そろっていること」と「揺らいでいること」が同時に存在する。この姿は、発酵らしいと感じます。すべてを完全に同じにするのではなく、中心となる働きを安定させながら、その周囲には多少の違いが残る。その小さな違いが、蔵や製造場所ごとの個性につながることもあるのでしょう。品質を守る科学と、発酵が本来持つ揺らぎは、必ずしも対立するものではないのだと思います。
ただ、少数の菌が多くの香り成分と相関していたという結果は、慎重に読まなければなりません。相関があることは、その菌が香りを直接つくった証明ではありません。同じ環境の変化に反応して、菌と香り成分が一緒に増減した可能性もあります。しかも今回の相関解析は探索的な段階で、統計上の偶然をさらに厳しく調整した検証ではないと説明されています。
だから、「珍しい菌ほどよい香りをつくる」「雑多な菌を増やせばおいしくなる」と考えるのは危険です。まして、研究で名前が出てきた菌を家庭の発酵で増やそうとしてはいけません。属の名前が同じでも、その中には性質の異なる多くの種や株がいます。食品づくりでは、狙った麹菌を優勢にし、温度や衛生を管理することが先にあります。多様性という言葉を、安全管理より都合よく使わないことが大切です。
私がこの研究から家庭の発酵へ持ち帰りたいのは、具体的な時間や菌の名前ではなく、「途中を急いで判断しない」という姿勢です。仕込んだ直後の見た目だけで、完成の味は分かりません。菌が働く時間には意味があり、変化が大きくなる時期もあります。ただし、待てば待つほどよいわけでもありません。信頼できる作り方に従い、清潔な道具を使い、決められた温度や期間を守る。その基本の上で、香りや色の変化を観察していきたいと思います。
研究資金と企業との関係が明記されていたことも、大切な点です。企業から試料や資金の提供を受けた研究だからといって、結果が間違っているとは限りません。実際の工場でなければ調べられないこともあります。一方で、誰が試料を提供し、誰が研究に関わったのかを知ることで、読者は結果の背景まで含めて考えられます。期待することと、条件を確かめること。その両方を持つのが、研究との健全な付き合い方なのでしょう。
醤油については、香りやうま味を楽しむ一方で、塩分にも目を向けたいと思います。製麹の研究は、醤油を多く使うほどよいと示したものではありません。香りが豊かだからこそ、たくさんかけなくても味わえる。食材に少しつける、だしや酢と組み合わせるなど、量ではなく持ち味を生かす使い方をしたい。発酵食品を大切にすることと、食べすぎないことは、矛盾しません。
私は麹醤油を仕込むとき、瓶の中をのぞき、香りを確かめ、毎日の小さな変化を楽しんでいます。研究室のようにアミノ酸や香気成分を測ることはできません。それでも、目に見えない菌と酵素が、時間をかけて材料を変えていることを知れば、混ぜる一回の手つきも少し丁寧になります。科学は、家庭の発酵をすぐ上達させる魔法ではありませんが、待つ時間の意味を深くしてくれます。
発酵には、人の思いどおりにならない部分があります。しかし、何もかも菌任せというわけでもありません。温度を整え、湿度を見て、空気を送り、時間を測る。人が環境をつくり、その中で微生物が働く。今回の三つの麹室は、その共同作業を数字で見せてくれました。
完成した醤油の一滴には、長い熟成だけでなく、その前の40時間も折り重なっています。数の多い菌、少ない菌、麹菌がつくる酵素、変化する酸やアミノ酸。そして、それらを安定させようとするつくり手の仕事。普段は見えないその積み重ねが、いつもの香りを支えているのでしょう。
この研究は、醤油のおいしさを一つの菌や一つの成分で説明するものではありませんでした。むしろ、たくさんの要素が関わりながら、「ぶれ」と「そろい」の間で味が形づくられていくことを教えてくれます。次に醤油を使うときは、ほんの少しだけ量を意識しながら、その一滴が通ってきた時間を想像してみたいと思います。毎日の調味料の中にも、まだ知らない発酵の世界が広がっています。
出典 Liu Z, Fan G, Song H, Liu X, Chen R, Yu Z, Yu J. “Dynamic Changes and Correlations of Physicochemical Parameters, Flavor Compounds and Microbial Communities During Soy Sauce Koji Production.” Foods, 2026; 15(12): 2133. https://doi.org/10.3390/foods15122133
※ この記事は査読付き学術誌に掲載された研究をもとに、内容を一般向けに整理したものです。研究の解釈には限界があり、今後の検証によって理解が変わる可能性があります。
※ この記事は個人の体験と公開情報に基づくものです。特定の疾患の診断・治療・予防を目的としたものではありません。健康上の不安がある方は、医師・管理栄養士などの専門家にご相談ください。詳しくは免責事項をご覧ください。